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2022年 06月 30日

悪菅 直人の豪邸「エコカン ハウス」

9年前   この日の思い出を見る


阿比留 瑠比 さんの投稿を

     · 2013630

 雑誌「プレジデント」(7月15日号)に、「被災地・仮設住宅よそに菅氏が建てる『エコ豪邸』」という不愉快な記事が掲載されていました。不快な気分をお裾分けするようで申し訳ないのですが、ある意味で興味深い内容だったので紹介します。以下、引用です。


 《……(菅氏は)今年一月、三鷹市に一戸建てを新築。「エコカンハウス」と名づけた。

 菅氏は「エコカンハウス通信」という自身のブログで、新築の経緯や住み心地を、いついた猫が語る形で記している。

「はじめまして。おいら、エコカンハウスの新住人、エア猫COCO。91歳のお婆ちゃん家を建て直して、Bossパパ、Bossママと一緒に二月末に引っ越してきた」(5月22日付)

Bossパパは菅氏、Bossママは伸子夫人、お婆ちゃんは菅氏の実母だ。

 登記簿によると、新居の敷地面積は182平方メートル。建物は二階建てで、床面積は一階が94平方メートル、二階が80平方メートル。(中略)

 ブログでは、「Bossパパは『この家は、エネルギー自給ができるように、省エネを徹底。太陽光発電と、都市ガスから発電と給湯を行う燃料電池(エネファーム)を備えて、計画ではエネルギーは107%自給できることになっているんだ』と、すごぉく嬉しそう」「エコカンハウスが2000万戸あれば、原発40基分の発電ができ(中略)原発なくても、大丈夫」と、売りである脱原発政策もちゃっかりアピール。

 また、建物は床暖房付きで「心地よさはまずまず合格」。屋根は太陽光パネルで覆われ、近くには井の頭恩賜公園や「初夏の緑の香りが気持ちよかった」神代植物公園などがあるという。

 快適な生活ぶりにケチをつけるつもりはさらさらないが、一方では原発事故の影響で、多くの被災者がいまだに不便な仮設住宅暮らしを強いられているという現実がある。夏目漱石を模したかのようなこのブログを、被災者は素直に読めるだろうか。》

 菅内閣時代、内閣官房参与を務めた松本健一氏は当時、産経新聞のインタビューに、「菅氏は国民に関心がない」と語りましたが、実際、菅氏は自分と自分の関心事項のことしか頭にないようです。菅氏が退陣後、四国八十八カ所回りに出た際、全村避難を強いられた福島県飯舘村の菅野典雄村長は私の取材に、「菅さんよ、お遍路に行くぐらいだったら、仮設住宅を回るのが筋だろう、と言いたい」と憤っていました。

 本当に人の心が分からない宰相でした……



# by gettenn66 | 2022-06-30 20:36 | Comments(0)
2022年 06月 28日

Summer has come, Spring, rainny seasen had gone. 早々に電力不足、節電要請

今日は6月27日 沖縄はとっくに、関東、東海が今日梅雨明けした。

たちまち、九州から東北まで、連日の猛暑である。政府は電力不足に警鐘を鳴らし、全国の家庭、国内各種職場等にも節電を呼びかけている。今、政府が検討しているという、「節電ポイント」とやらがさっぱりピンとこない。その実行効果も、勿論どれほどのものとなるのか、分からない。そこでだが、一つ手っ取り早い、大まかな方法を考えてみた。先ず、一つ、多分、大電力消費をしているだろう、全テレビ局の放送時間をたとえば、午後23時以降、翌朝6時まで放送休止をする。二つ目、一般の会社、事業所の残業は午後10時までとする。一般の商店、飲食業等は除く。屋外の高層ビル、ネオン塔などの、一般商業電飾は午後11時まで(信号灯、街路灯や防犯、通行案内表示など市民の安全確保の用に供するものは除外)。極限すれば、嘗ての「オイルショック」時に講じた方法に学ぶ、と言うこと。また、今後さらに事態切羽詰まっても、一部でも、原発再稼働に反対するのであれば、石炭火力発電の利用しかない。(これも今は輸入に頼っているのだろうが、石油、ガスほど輸入困難では無いだろう)。目下は、参院選の最中、政府、自民も野党も、目下それどころじゃない、と言う状態だろうが。さて今ひとつ、日頃、政権監視、政府監視を以て使命とする、と豪語する、新聞、テレビを始めとするメディアだが、こう言う時にこそ、身をもって削る提言、或いは、政府口撃をしないのが不思議。

「国家非常事態法」があれば、は、またの論議に。



# by gettenn66 | 2022-06-28 15:22 | Comments(0)
2022年 06月 05日

“タフな日本人”田中角栄が持つ魅力とは? 

今、田中角栄氏ありせば。と、つくづく思うは、豈、私のみならんや。

© 文春オンライン 今年は田中角栄が首相に就任して50

◆◆◆タフな日本人田中角栄が持つ魅力とは?                            「きみたち日本人はアメリカにこんな残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」場所は広島の原爆資料館。発言の主はエルネスト・チェ・ゲバラ。言わずとしれたキューバ革命の英雄である。革命後、新生キューバの国立銀行総裁として来日(昭和34年)した31歳のゲバラは、「原爆の犠牲者たちの霊を弔いたい」と独断で予定ルートを変更して原爆資料館を訪問。原爆慰霊碑に献花を行い、1時間ほど見学した後、同行した広島県職員にこの台詞を放っている。――落雷にも似たゲバラの怒りの言葉をがっちり受け止め、押し返せるタフな日本人は田中角栄しかいないだろう――拙著『属国の銃弾』の背景には、いち物書きの、こんな独りよがりの妄想があった。 戦後の焦土で日本がひっくり返るような狙撃計画を企て、高度成長期の日本でゲバラの言葉に激怒し、覇権国家アメリカと渡り合い、日本国を自在に切り回す快男児を描くとしたら、モデルは田中角栄以外、考えられなかった。テロリストにも似た「冷徹さ」折りも折り、今年は田中角栄が54歳で総理に就任して50年という節目の年である。この半世紀の間、角栄は幾度かブームを迎え、政治家としての評価もめまぐるしく変化してきた。私は拙著の執筆に当たり、毀誉褒貶相半ばする彼の破天荒な人生を改めて調べてみた。すると意外な側面に目を留めることになった。既存の価値観をぶっ壊して毛筋ほども感情の揺れを見せない、冷徹なテロリストにも似た、底の知れぬ恐ろしさである。昭和史研究の第一人者、保阪正康の『田中角栄の昭和』にこんな件りがある。《田中は首相在任中も、天皇に対してとくべつな感情を示していない。吉田茂や佐藤栄作とは違い、〈臣角栄〉という感情はほとんどもっていなかったように思える》その最たるものが内奏(天皇に対し、国務大臣等が国政の報告を行うこと)である。天皇の質問に対し、普通は政府の包括的姿勢を恭しく二言三言で答えて終わるところ、角栄は臆することなく詳細に、数字を羅列し、自らの考えも交えて徹底して語り尽くすのだという。天皇も周囲も戸惑う。当然だ。憲法上、天皇は政治に関与できない。突っ込んだ話し合いをすると批判も出てくる。しかも、内奏を終えるや「不肖田中にまかせてください」と胸を叩いてみせたとの逸話もある。保阪は《無作為の国体破壊者》という刺激的な言葉を用い、角栄の知られざる実像を探る。得体の知れない「異形の総理」の登場《この場合の「無作為」というのは、たとえば 「天皇制打倒」を唱える社会主義者を作為的とするなら、田中はまったくの無作為という意味である》天皇・皇后が主催する園遊会の露骨な政治的利用(選挙区の支援者を多数招くなど)も平気の平左。日米首脳会談の席でニクソン大統領から天皇訪米を求められると、その場で承諾し、訪米の時期まで詰めてしまう。当然、宮内庁は激怒する。《宮内庁長官の宇佐美毅は辞任覚悟で田中に会い、天皇の政治的利用を拒否する、と強い調子で申しでている。むろんここには天皇の意思が働いていたと見ることができる》昭和天皇は得体の知れない「異形の総理」の登場に驚き、戸惑い、恐怖の感情さえ覚えたのではないか。「しがない馬喰のせがれには、これしか……」その一方で、角栄は国民に大人気の庶民派総理でもある。新潟の雪深い寒村に生まれた馬喰の倅が高等小学校卒業後、15歳で単身上京。世間の冷たい風にもめげず、腐らず、街の土建会社の社長から国会議員に大出世し、遂には総理大臣に。今太閤誕生、と謳われたこの奇跡の出世譚は国民から大喝采を浴び、ベストセラー『日本列島改造論』のスケールの大きさも相まって、田中角栄人気は空前の社会現象となった。その裏では、莫大なカネと捨て身の度胸を武器に、ひたすらあがき、群がる敵を叩き伏せ、社会の階段を駆け上がった修羅の道がある。法律、社会倫理を無視して稼ぎまくったカネで仲間を集め、官僚を手なずけ、強大な権力を握った角栄は、その代償として《金脈問題》で総理の座を追われ《ロッキード事件》で止めを刺された。受託収賄罪等の容疑で逮捕され、総理経験者で初めて刑事被告人となり、金権政治家、闇将軍、カネに汚い悪徳政治家との汚名を着せられた角栄には、心の奥底に秘めたルサンチマンがあった。角栄の番記者を務めたジャーナリスト、早野透の『田中角栄』に元官僚の長老政治家が角栄を諭す、なんとも切ない一節がある。《「総理が札びらを切るなんてみっともない。やめなさい」と言うと、角栄は「じいさん、あんたには学歴もある。高級官僚だった自尊心もある。だが、おれには何もない。学歴もない。しがない馬喰のせがれには、これしかないんだ」と涙を流したというエピソードが伝わる》角栄が50年前の北京で見せたユーモアとは?いま、角栄が総理なら、との声は方々から聞かれる。ロシアのウクライナ侵攻でゼレンスキー大統領が発揮したリーダーシップが強力なだけに、その声は切実だ。実際、日本の政界を見回しても、悲しいかな、これぞ国家のリーダーの器、という大人物は皆無。世襲の横行が祟ったのか、はたまた政党助成金なる掴みガネが政治家から腕力と闘志、緊張感を奪ったのか、経済同様、政治も衰退の一途を辿っている。角栄が沈没寸前の日本を復活に導けるか否かはともかく、周囲の誰もがうなる、強烈なリーダーシップの持ち主であったことは確かだ。その逸話は枚挙に暇がないが、たとえば政治生命を賭けて臨んだ昭和47年の日中国交正常化がある。昭和の大カリスマ、田中角栄の真骨頂、勇躍北京に乗り込んだ一行が交渉の席で周恩来を激怒させてしまい、外務大臣の大平正芳以下、意気消沈し、まるでお通夜のような夕食の席で唯一人、総理の角栄だけがニコニコと楽しげだった。当夜の模様を政治学者、服部龍二の『日中国交正常化』より引く。《田中は、なみなみと注がれたマオタイを飲みほし、「大学出たやつはこういう修羅場になると駄目だな」と笑ってみせた。大平が、「修羅場なんて言うが、明日からどうやってやるのだ、この交渉を」と珍しく感情をむき出しにした。(中略)「そんなことを俺に聞くなよ。君らは、ちゃんと大学を出たんだろ。大学を出たやつが考えろ」田中の言葉に全員が顔を綻ばせ、部屋中が笑い声に包まれた。》絶体絶命の窮地に陥ってもなおユーモアを忘れず、周囲を鼓舞する胆力と余裕。これぞ昭和の大カリスマ、田中角栄の真骨頂である。(文中敬称略)(永瀬 隼介/文藝出版局)

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# by gettenn66 | 2022-06-05 16:00 | Comments(0)
2022年 06月 04日

日本赤軍元幹部の出所風景に「愕然とした」駐日イスラエル大使 ギラッド・コーヘン氏のツイートに寄せて

本投稿の大前提として

サベナ機ハイジャックの失敗

1972年5月8日に、パレスチナ過激派テロリスト4人が、ベルギーブリュッセル発テルアビブ行きのサベナ航空ボーイング707型機をハイジャックしてロッド国際空港に着陸させ、逮捕されている仲間317人の解放をイスラエル政府に要求した(サベナ航空572便ハイジャック事件)。しかし、イスラエル政府はテロリストによる要求を拒否し、ハイジャックしているテロリストを制圧し、犯人の内2人は射殺され、残る2人も逮捕された。93人の人質の解放に成功したものの、乗客1人が銃撃戦で死亡した。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは赤軍派の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。    そこで、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは赤軍派の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。

なお本事件は一般に「日本赤軍による事件」と呼ばれることが多い。しかし、正確には「日本赤軍の前史」ともいえるが、日本人グループはPFLPへの国際義勇兵として参加したもので、当時は独立した組織との認識は共有されていなかった。自称も「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等であり、「日本赤軍」との呼称が登場するのは事件発生後で、組織としての公式な名称変更は1974年である。1972年5月30日、犯行を実行したのは、赤軍派幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(当時25歳)の3名である。
 そして今日5月30日は
日本赤軍によるテルアビブ・ロッド空港(現ベン・グリオン空港)銃乱射大事件から50年だった。    その当事国イスラエルの駐日大使の心情には思ってあまりあるものがある。ましてや当の主犯者たちが未だ生きてあり、刑に服したとはいえ、その刑罰が、犯した罪を贖うに足りるものであったかどうか。更には、その残滓が今もなお現存し徘徊し策動し続け、まして況や一部にこれを持て囃す風があるなどとは。日本という国の、或いは世間の風の甘さには、天を同じくする者の一人として、信じ難く悲怒交錯して言葉も無い。
コーヘン・イスラエル駐日大使の意を体し、門田隆将氏の意を忖度し下記のTweetをFBに転載致する。


日本赤軍元幹部の出所風景に「愕然とした」 

 イスラエル大使が怒り「理性あれば祝福できない」       6/2(木) 15:25配信

日本赤軍元幹部の出所風景に「愕然とした」駐日イスラエル大使 ギラッド・コーヘン氏のツイートに寄せて_e0065412_14001973.jpg

日本赤軍の重信房子・元最高幹部。約20年にわたる服役を終えて出所し、支援者の歓迎を受けた(写真:AFP/アフロ)

 日本赤軍の元幹部らが久々に公の場に姿を現したことが一部で温かく受け止められているとして、イスラエルのギラッド・コーヘン駐日大使が2022年5月31日、ツイッターで「愕然としました」と憤った。そも。重信房子とは。重信 房子(しげのぶ ふさこ、1945年昭和20年〉9月28日 - )は、日本の新左翼活動家、テロリスト革命家。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。ハーグ事件共謀共同正犯として有罪となり、懲役20年の判決を受けた。東日本成人矯正医療センターなどで服役していたが、2022年5月28日午前8時前に刑期満了で出所した。

扠、5月28日に重信房子元最高幹部(76)が20年にわたる服役を終えて出所し、30日に岡本公三容疑者(74)が逃亡先のレバノンで開かれた集会に姿を見せたことへの反応だ。5月30日は、1972年にイスラエル・テルアビブのロッド空港(現ベングリオン空港)で起きた乱射事件から丸50年にあたる節目の日だ。岡本容疑者は実行犯のひとりで、コーヘン氏は「理性ある人なら、26人の罪のない民間人の殺害に関与した人々への支援を表明し、祝福することはできないはず」だと訴えた。    ■付記:パレスチナ側、重信元最高幹部は「生涯の同志」                   

以上の情景と記事に対しての、駐日イスラエル大使 ギラッド・コーヘン氏はツイートで、重信元最高幹部や(岡本容疑者の動向を伝えるツイートを貼り付け、

「1972年にロッド空港で発生した乱射事件から50年を記念する集会に参加した岡本公三容疑者、および先週末出所した重信房子元最高幹部が温かく迎えられる姿を見て愕然としました」と書き込んだ。貼り付けられたツイートのひとつが「パレスチナ青年運動」(PYM)のものだ。そこでは「重信房子がついに自由の身に」とうたい、重信元最高幹部を「日本の自由の戦士」で「パレスチナ人と闘争の生涯の同志」だと讃えている。

コーヘン氏は、乱射事件の現場写真つきで「理性ある人なら、26人の罪のない民間人の殺害に関与した人々への支援を表明し、祝福することはできないはずです。そしてそれは、事件から50年が経過した現在でも同様です」とも書き込んだ。

岡本容疑者出席の集会は「テロ組織のメンバーであり、罪なき命を奪った4人の日本人を記念」

 さらに、イスラエルの国会議員が、第二次世界大戦時にユダヤ人難民を救った日本人に感謝状を贈ったエピソードと、岡本容疑者が出席した集会が「パレスチナのテロ組織のメンバーであり、罪なき命を奪った4人の日本人を記念して開催」されたことを対比しながら、次のように主張した。

「もしもどういった道徳的価値観を重視すべきか迷うときには、どちらの側が平和を重んじて命を救う行為を敬い、どちらの側が戦争と暴力、そして命を奪う行為を敬うのかを思い出してください」

 国内の一部には、コーヘン氏と問題意識を共有する論調もある。例えば産経新聞は5月31日付紙面の社説にあたる「主張」の欄で、「彼女はヒロインではない」の見出しで重信元最高幹部の出所を取り上げている。そこでは、「いわゆる全共闘世代には郷愁を誘われる存在なのだろう。出所を扱う多くのニュースが『時代の象徴の生還』といった趣で報じた」と指摘しながら「彼女は決して時代のヒロインではない。改めて彼女が率いたテロリスト集団による、血塗られた凄惨な歴史を記憶すべきである」と断じている。   (J-CASTニュース編集部 工藤博司)



# by gettenn66 | 2022-06-04 13:42 | Comments(0)
2022年 05月 28日

升田幸三のエピソード!

升田幸三のエピソード! 鷲谷 亘 升田幸三のエピソード!  2022.5.28  12:28時

 

         (更新日:2020年07月29日 有田 英樹  執筆者:有田 英樹)

占領軍は「日本の精神文化」として将棋も禁止にしようと試みた

升田幸三とは?将棋でGHQを詰んだ男

日本が、開国以来初めての敗北を喫した太平洋戦争。勝者である連合国にとって、東洋の小さな島国は異様で理解しがたい強国と映っていた。なにしろ、黒船で太平の眠りを覚まされてから、わずか40年で、眠れる獅子と畏怖された「清」を撃破したのだ。その後、欧米列強の一角である「帝政ロシア」を破り、第一次大戦でも勝者となるなど、黄金の国ジパングは無敗、向かうところ敵なしの快進撃だった。占領軍がその強さを東洋の神秘と恐れ、日本の精神文化にもその一因を求めたとしても無理からぬことだ。武道に始まり、歌舞伎の「忠臣蔵」や「勧進帳」、剣術映画、そして、はり灸までも、彼らは危険と見なし禁止しようとした。当然のように「将棋」も、そのターゲットとなった。

GHQに升田幸三がやって来た

1947年、夏。敗戦で焦土と化した日本の大地を、太陽は容赦なく焼いていた。             東京、丸の内、皇居お壕端(ほりばた)。突き刺さる日差しの中、一人の男が「ふう」とため息をつき、口を真一文字に結んだ。眼前には「連合国軍総司令部(GHQ)」の本部、第一生命ビルがある。 男は入り口を守るアメリカ兵に低く言う。

「升田幸三だ。話を聞きたいとのことなのでやって来た」

升田、29歳。戦時下の軍に属しながらも、生きて終戦を迎えた升田。野武士を思わせる風貌に似合わず、その生業は将棋指し、現在で言うところの棋士である。破天荒、豪放磊落、放言癖、酒豪、いろんな言葉で語られる升田だが、度胸の良さと頭の回転の速さは万人が認めるところだった。

 GHQにて将棋の行く末を決める

長いGHQ本部の廊下に、案内役の靴音が甲高く響く。「たしかに日本は投了した。だが、俺は詰まれるわけにはいかん」先の先を読むのが当たり前の棋士である。GHQが自分を呼び出した意味を読んでいた。「俺が詰まれたら、将棋は消されちまう」もちろん彼は知っていた。戦前戦中を通じ、将棋史上最強と言われ、常勝将軍とも賛美された「名人」木村義雄が軍関係者に重宝され、海軍大学で講義をしていたことを。「やつらも木村さんのことは調べているはずだ」だから、今日の呼び出しは、将棋抹殺のための儀式に過ぎまい。厚い扉が開き、部屋に通される。待っていたのは、きらびやかな軍服を着こなしたアメリカ将校達だった。なんだ、がん首並べたべた金相手に、俺は一人か。この対局、俺の駒落ちだな。ならば、先手だ。升田幸三が放った初手、彼は、通訳とおぼしき男に、まずこう言った。「酒を飲ませてもらいたい」升田は初手を決めていた。後に、これが作戦だったと回想する。「ビールを飲めば、必然的に小便が近くなる。難しい質問をされたら便所へ立ち、じっくり返事を考えよう」はたして、言葉通りに受け取ってよいものか?私は思う。升田は本音の部分でも酒を欲したのではないか。5歳の時から飲んでいたという彼は、己と酒の相性を知り尽くしていた。自身に課せられた任の重さが、その力を必要としたのではないか?もちろん、この発言が相手に与えるインパクトも計算してのことだろう。いずれにせよ、この状況で酒を要求する度量を持つ人間は升田以外にいまい。相手は勝者アメリカ、足がすくんで当然の場面なのだ。意表をつかれた通訳は、目を丸くして、上官に伝える。升田には、そのやりとりがわからない。さて、圧倒的な権力者はどうでるか?あえて敵に手を渡すのは、将棋の高等戦術の一つだ。

 GHQの余裕

しばらくして、テーブルに缶詰が並んだ。なんだ、缶詰か。酒を出す気はないのか?憤然とする升田。しかし、通訳は笑った。それはビールですよと。初めて見る缶ビールだった。今度は升田が驚いた。こんな物が世の中にあるのか。だが、表情には出さない。これまた、棋士の常道だ。升田の「奇手」に対し、GHQは圧倒的な余裕を見せつける手を指した。どうだい、見たこともないだろう。これが、アメリカという国なんだ。黒船と同じ豪快な指し手だ。いかな升田でも、この手は読んでいなかった。敵に意外な手を指された場合、棋士の対応は2つに分かれる。その意図を探ろうと慎重に構えるタイプと、それを上回る手を探り戦況を激しくさせるタイプだ。この時の升田は後者だった。

 襲いかかる升田幸三の一手「まずい。これ、本物のビールか?」ことさらに大きな声で、そう言った。会心の一手に襲いかかる升田の常套手段だ。呼び出した相手に、いきなり理不尽な要求をされ、それでも、余裕で受け入れた強者。しかし、弱者であるべき相手は、さらに高飛車な態度に出た。軍服は驚きを隠せなかった。そして、驚きを隠した升田はペースを握った。質問が始まる。

「日本の武道は危険なものではないか」おいでなすった。升田は、ほくそえむ。

「そんなことはない。『武』という文字は戈を止めると書くのだ」戈とは槍に似た武器のこと。そして、槍は将棋駒「香車」の愛称でもある。升田のフィールドそのものだ。それにしても、なんとも痛快。みごとな切り返し技ではないか。将棋は捕虜虐待の競技だ、将校達は本題に入らざるを得なくなる。「チェスと違い、将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するものではないか」世界を見渡せば、将棋に似た競技はたくさんある。西洋のチェス、中国のシャンチー、朝鮮半島のチャンギなどなど。ご存じだろうか。その中で、たった一つ、将棋だけが相手から取った駒を自分の駒として使えるルールを持っているのだ。だからこそGHQは、ここを突いてきた。チェスを肯定し、将棋を否定するならば、ここしかない。持ち駒使用という将棋最大の特徴が「捕虜虐待」という危険思想にされたのだ。追い込んだ。いや、チェックメイトだ。将校達は、自信たっぷりだった。しかし……再度、言う。升田は棋士である。その中でも卓越した洞察力と発想力を持つ将棋指しなのだ。だからこそ今、この部屋に来ているのだ。そこを彼らは見誤った。

 躍動する升田幸三

升田は、ぐいっと「まずい」ビールを飲み干して、笑いを浮かべた。この手を読んでいたのだ。  「冗談ではない」冗談を言ったつもりなど、みじんもないGHQ将校たちは、あっけにとられる。  チェックメイトではないのか?その表情を升田は見のがさない。「チェスこそ、捕虜の虐待、いや虐殺だ」取った駒を使えぬチェスを、逆に否定した。いや、それどころではない。虐殺とまで言い切ったのだ。攻めには、それを上回る攻め。これぞ、升田将棋そのものだ。

「そこへいくと、日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない」通訳もうろたえる。必然的に間合いができる。また酒に手をやる升田。「将棋では、つねに全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという思想だ」升田の言葉は盤面を踊る駒のように、躍動する。

「しかも、敵から味方に移ってきても、金は金、飛車なら飛車と、元の官位のままで仕事をさせるのだ」通訳の言葉を聞き、口をぽかんと開ける将校達。升田は缶ビールを片手に、敵の標的を逆手に取り、とうとうと説教を垂れる。もはや、どちらが尋問しているのかわからない。

GHQの王手飛車取りに升田幸三は……

しかし、GHQには奥の手があった。そう「名人」木村義雄の件だ。前述の通り、木村の将棋観が日本軍に関わったことは動かしがたい事実。升田はそこを突かれる。勝負は最終局面を迎えた。木村をかばえば、将棋がつぶされる。かと言って、将棋を守ろうとすれば、名人一人に責任をかぶせることになる。王手飛車取りをかけられた升田、最大の危機だ。だが、升田は逆王手をかけてみせる。

「戦争中、あの人が海軍大学などを講演して回り、おかげで日本は戦争に負けた。オレが代わりにやっとったら、日本が勝っておる。おんどれらにとっちゃ、あの人は大恩人なんだぞ」今度は敵の標的を大恩人に変えての演説だ。ことここにおよんで、将校達に変化が訪れる。魅了されたように聞き入り始めたのだ。升田幸三が放った寄せの一手その後、演説は5時間以上も続けられた。これも、対局に数日をかける升田にすれば何のことはない時間であるが、相手にとってはかなりの時間だ。酒、チェス、血圧から政治まで、話は多岐にわたり、どれもが、聞かせる内容だったのだ。

そして、最後の寄せの一手は、次の言葉だった。

「巣鴨にいる戦犯の連中を殺さんで欲しい。彼らは万事よく知っており、連中を殺すのは字引を殺すようなものである。生かして役立てる道を考えてもらいたい」

標的とされた持ち駒ルールの精神を占領政策に取り入れろとしめくくった。升田幸三がGHQを詰んだ瞬間だ。みごとな対局だった。だが、対局は一人ではできない。

升田を認め、許容する力を持つ相手だったからこそ残せた棋譜なのだ。対局者は民生局長ホイットニー准将、マッカーサーにつぐGHQナンバー2、日本国憲法の草案にも関わった男だった。

こうして将棋は生き残った。標的となった多くの他の文化と違い、一度も途絶えることなく、現在に至ることができた。

1991年4月5日、升田は逝く。73歳だった。「巨星」羽生善治(参考「羽生善治の将棋は何が凄いのか?」)がもっとも対戦したい相手として選んだのは、升田だったことを付け加えておく。

              ーーーー完ーーーー



# by gettenn66 | 2022-05-28 13:14 | Comments(0)